1980年代の日本の自動車業界とアメリカ進出

1980年代、自動車の海外営業はその当時、花形産業であこがれていました。しかし、配属になったのは、同じ希望する海外でも海外営業ではなく、国際調達部門(生産装置である、工作機部門)。非常に落胆したことを今でも鮮烈に覚えています。

しかしながら、調達の仕事を重ねていくなかで、今まで営業、販売部門の業務だけをしてきた自分の知識不足を実感。物作りの現場、その、物作りを行う生産装置を理解しなければ、本当の販売が出来ないと気づかされました。言い換えれば、自分が営業する製品がどのような装置で生産され、どのように真剣に検査点検され客先の下へ届けられるのかを知ることは、私にとって大きな出来事で、その後、私の営業、販売の仕事を続けていくうえで客先に対して説得力のある話ができるようになったのはこの経験からであると確信します。

1980年代、アメリカとの激しい自動車摩擦が起こり、大手自動車会社は現地生産に向かうしかなく、私が従事していた会社もミシガン州のデトロイト近郊で工場を建設することになりました。私もその工場の生産装置の調達担当として、初めて海外に駐在することになり、毎日夢見心地でしたが、一方で、技術者も多く駐在を余儀なくされ、悲壮な表情で毎日、英語の特訓に明け暮れていたのを横目で見ていました。日本から生まれてから一歩も出ていない多くの人たちが、ミシガン州のデトロイト郊外の片田舎に赴任することは人生において一大出来事であったと想像できます。

一方で、多くの地場の部品メーカーも同時に進出することもあり、日本レストラン、食堂も多く進出しましたので、ふたを開けると、工場の社員食堂で日本と変わりないに美味しい日本食を毎日食べていました。今は多くの日本の自動車メーカーの工場がアメリカの至る所ありますが、当時は一大イベントでした。私の貴重な経験と思い出話です。

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